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会報 No.287


感謝雑感

詩編33編 1〜22
禿 準一


 キリスト教において「感謝」は、最もその特徴を表わしますが、この言葉と内容を私たちは詩編の中にそれを多く見つけます。私はその中でも特に私たちの教会の毎週の礼拝の折の交読詩編、良く読み交わす詩編33編の1節からの言葉を思い出します。

 感謝の思いを体験するのは礼拝のとき。
「主に従う人よ、主によって喜び歌え、主を賛美することは、正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌を歌え。新しい歌を主に向かって歌い、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ」(33の1)。この詩編の開口一番の言葉が、礼拝で読み交わされるとき、「主に従う者」である私たちの基本的な姿勢が明らかにされます。日常の生活には必ずしも喜びだけではありません。むしろ自分たちの生き方が覆されるような不信仰の中で苦闘し、それに比例するように混乱や不安などを抱えて過ごしています。「喜び歌い」「感謝をささげ」「喜びの叫びをあげる」からはほど遠い生活です。しかし感謝すべきことに私たちのその不十分さにもかかわらず神に招かれ、礼拝において神との深い交わりを許されます。

 礼拝ということでは100編の「感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ。感謝をささげ、主のみ名をたたえよ」(4)も同じ思いが伝わります。この詩編もよく交読詩編に使われるのを思い出す人もいるでしょう。

 最近教会の数人の方から、礼拝に出られることは本当に感謝だという言葉を聞く機会があります。確かに礼拝に出席できることは感謝であり喜びです。そして教会の共同体としていっしょにこの詩を「叫ぶ」ときに、心を一つにして神の前に座します。

 主イエス、神と自分の関係を思うときに感謝の心が沸いてきます。
「み業は全て真実、主は恵みのわざと裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている」(100編 4、5)は、イエスにおいて示された神の愛を思うとき、礼拝のときだけでなく、一週の普段の生活や、私たちが主イエスに出会って以来の過去の導きを思い返すときも、感謝の思いを深くします。「主は大海の水をせきとめ、深淵の水を倉に納められた」(7)は、大波が襲ったような歴史の過去の混乱や無秩序、個人の家庭の生活に起こったさまざまな試みも「倉に閉じ込めて」くださった神の力に圧倒されるのです。

 多くの大きな困難や試練に出会った人々に比べると、自身の大波は小さいかも知れません。しかしその私にとって、大波、深淵なのです。私の場合も洗礼を少年期から青年期に入る年代に受けました、全くの無知で不十分だった出発でした。

 伝道者になって四十数年たった今も決して十全ではない自分の歩みを思い、悔いが多いのです。そして思うのはただ神の憐れみです。小さい何の変哲もない小石を河原の中から見つけ出してもらった感を深くします。「天からみわたし、人の子らを一人ひとりご覧になり‥‥地に住む全ての人に目を留められる」(14)が、私にも起こっているのです。私の感謝の実感を最近は、友人の牧師たちや若い学生たちに「これまで失うよりも、与えられたものが多かった」と述懐しています。また始まったという顔をされますが私の実感なのです。感謝は喜びの思いを伴います。

 パウロの感謝の言葉「私たちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」は、教会の人達の互いの良い関係の故の感謝です。お互い同士の「キリスト、イエスにおいて持っている信仰と、全ての聖なる者たちに対して抱いている愛について聞いたからです」(コロサイ1:3)。この感謝も私の最近の感謝です。

 今年も終わろうとしています。新しい年も、感謝の根拠である「われらの魂は主を待つ。主はわれらの助け、われらの盾、われらの心は喜び、聖なるみ名により頼む」(20,21)日々でありたいと思います。